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荒川教授の「とりあえず日本語」ブログ
第10回 再びおとなりさんへ


先日、『米国の日本語教育に学ぶ 新英語教育』本
(米原幸大 著、大学教育出版)を読んだ。

本の中では、アメリカの日本語教育に1章を割き、
ゼロから始めて簡単な口頭コミュニケーションが取れるようになる
英語圏の日本語教育と比して、
日本の英語教育はどうなっているのか、
という問いかけがあった。
100パーセントの肯定はできないが、説得力のある論旨だ。
中学1年(7年生)で「あいうえお」も書けないペンレベル、
いわゆるゼロスタートからの日本語教育でも、
文型を積み上げてドリルを進め、アクティビティを重ねると、
たいていの子供は動詞のマス形を使って、日常生活のことが言えるようになる。
繰り返すが、1年で十分だ。
A:昨日はどこへ行きましたか?
B:家族と日本レストランへ行きました。すきやきを食べました。
単純な比較は危険だけど、これを英訳した

A:Where did you go yesterday?
B:I went to a Japanese restaurant with my family. We ate sukiyaki.
程度の内容を話せる日本の高校生(中学生ですらない)は、
いったい何パーセントくらいいるのだろうか?
あるいは短大や大学を出て、英会話学校に行く人たちのトピックだって、
多くはこのレベルではないだろうか?

この原因は多様だろう。
英語教育は日本語教育の隣接分野なので、お隣の立場で3つ。


ひとつめ。
上の本で批判されていた、あまり効率的とは言えない日本の英語教育からでも、
高いレベルの英語の使い手はちゃんと出ている。

大学のディベート大会に出場するレベルの学生たちがいい例だろう。
彼ら、彼女たちは帰国子女でもなんでもないが、共通することは

・高度な内容を伴った英語を口頭で使い、試合に勝つというニーズがあること、
・大学入試までに得た英文法と語彙の知識を口頭で顕在化させたこと
この2点だ。
ここでのキーワードは「高度な内容」にある。

日本語だろうが英語だろうが、ことばは「どう話すか」ではなくて
「何を話すか」が重要なのであって、それを脇においた外国語教育の議論は、
あまり意味がない。

いくら中学校で「どう話すか」を教えても、
それが「何を話すか」と連携されなければ、
ちょっと聞くとペラペラ聞こえるけど大した内容がない、
結局はヘタな英語になってしまう。


ふたつめ。
国内外どちらでも、日本語を上手に話す外国人で、
小学校のうちから「早期日本語教育」を受けた人はまずいない。
こう言い切れるのは、世界の初等教育機関で日本語を実施している
学校の数がある程度把握されているからだ。

ということは、外国語を習得するのに早期に始めないと遅い、
というのは誤りになる。

早期教育は異なる文化に目を開かせたり、
ある物事を違う音で言うことばがあることを知らせることはできる。
しかし、それ以上ではない。

もし英語だけは早期に始めないとマスターできないとしたら、
それは英語だけが特例になってしまい、
「外国語教育」という概念は崩れてしまう。
そしてもちろん、英語だけが特例ということはない。


みっつめ。
となると、日本の英語教育を阻害する意外な存在は、

・英米に偏重した発音重視

つまり、正統なイギリス英語やアメリカ英語っぽい話し方をすること「だけ」が
国際化であり、英語をマスターしたことになる、という思い込みだろう。

アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアのような
「外国人っぽい」英語を話す必要はないんだ、
インド人や中国人と、カレーとか麻婆茄子でも食べながら自己表現できる英語
でいいんだ、と考える見切りができるかどうかだ。


僕はこの発想の転換こそがいちばん必要だと思う。
英語が使えれば、英語が母語の人とコミュニケーションができる。
しかしその何十倍の人たちとも、僕たちは英語でコミュニケーションはできる。

どちらの人たちにも相手にされるには、
まともな教養ときちんとした自分たちの考え方が必要になる。

それを身につけるためには、英米っぽい発音の練習をする時間を、
普通の勉強に向けて、それを英語で発信できるようにすることだ。
そういう連携ができている教育機関が日本には、本当に少ない。

英語を使って外国に、特にアジアに目目を向けよう。

今日の国際誌で最も大切な一冊本、『Asia Week』が日本をあまり取り上げないこと、
そして日本人で『Asia Week』を読む人が少ないことは、
日本の英語ブームと比べると、僕には大きな矛盾に映る。

 

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