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荒川教授の「とりあえず日本語」ブログ
第14回 翻訳をめぐって


最近、海外古典文学本の新訳が目立つ。
村上春樹は長年の愛読書『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を訳したし、
うちの学長である亀山郁夫先生も『カラマーゾフの兄弟』を訳し、どちらも好評ひらめきだ。

ところが新訳というのは、読みやすくなっている一方で、批判も多い。
昔と違って、今は知識層が増えた。
だから細かく見ていけば突っ込みどころは必ずあるし、
まして語の選択やニュアンスの問題になれば、批判・批評はそれこそきりがない。

亀山訳の新しいドストエフスキーも、一部の語義をめぐって、
これでは創作だとか偽訳だとか、ネットに批判が出ている。
中には、
-先人は翻訳に大変な苦労をした。
たとえば二葉亭四迷は原文の4つめのあとにコロンがあったから
日本語訳も4語目の後に読点を入れた、そこへ行くと亀山は…

などと滔々と述べているものもある。
でもこれ、批評というのはかなり稚拙だと、僕は思う。

そもそも、直訳っていうことばの概念から、疑ってかかったほうがいい。
というのは、いかなる単語もそれが使われている場所における価値や
含意から逃れることはできないからだ。

たとえば hope を日本語で何というかというと、辞書には「希望」と記載されている。
けれど、その含意やコロケーションまで見ていけば、厳密には hope は

-希望らしきもの・希望に近い何かぴかぴか(新しい)

としか、辞書には書けない。

そんなことは辞書の編纂にたずさわった人であれば(僕もそうだけど)、誰でもわかっている。
ある外国語の概念とぴったり同じものなんか、母語には1つもない。
まして原文の4語目のあとにコロンがあったから訳文も4語目の後に読点、
などと統語の順が違う言語で「合わせ」を試みても、ハッキリいって何の意味もない。


僕の師匠の倉谷直臣先生(元・神戸松蔭女子学院大学)は

-The knowledge of his absence made me feel at ease.

という英文に対する

-彼の不在の知識が私を安楽にした

という直訳を批判して

-あの人いないんだなあ、と思うと気持ちがほっとした。

という、現代日本語のプレーンな訳文を当てている。
これこそ、翻訳であるひらめき

どんな直訳も、原文のニュアンスを完全には伝えられない、
それでも人は言語という不安定な道具で分かり合わなくてはならない、
そう諦念したとき初めて、僕たちは言語に希望を託すことができる。
これは音声言語の解釈だって、同じことだ。
ことばはそれが発せられたとき、聞き手がその言語のネイティブスピーカーであっても、
100パーセント理解できることはありえないし、
言語そのものだって考えるほど論理的なわけではない。
それでも、肺からの呼気を歯とか喉とかでちょっと加工した程度の音で、
僕たちは何とか分かりあわなければならない。

こんな程度の道具で、人間が理解しあい、
何とか西暦が2010年まで続いたのは、実に立派だと思う。
ことばが「わかる」というのは、それくらい曖昧で、その一方で、大変なことだ。

だから翻訳に際しては、翻訳者と出版人は現代性を考えて解釈をおこない、
あとは読者が考えればいいことだ。
つまり翻訳は、演劇に似ている。
たとえばシェイクスピア「ハムレット」は、原本として厳然と存在している。
しかし、いつ・どこで・誰が演じるかですべての異なったハムレットが存在する。

-この解釈は現代的過ぎておかしい。
-日本人だからハムレットは演じられない。

こういう意見は、偏狭に過ぎる。
ウガンダ人の8歳の子どもが演じても、チリ人の老婆が演じても、
ハムレットはそれでいい。テキストは試み続けられ、乗り越えられ、新たな価値を獲得する。

それゆえ、ある翻訳に対する最も有効な批判は、自分で訳すことだ。
そして、その訳で、同時代の読者に読みを試みることだ。
あとは読み手が判断するだけのことだ。

 

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