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荒川教授の「とりあえず日本語」ブログ
第18回 ことばの伸縮


ことばは毎日、人々によって使われる。
この点で、洋服ブティックとちょっと似ている。
使われていくうちに、伸びたり、縮んだりする。
この点でも、洋服とちょっと似ている。
ことばの伸び縮み?
そう、ことばの意味は、使われていくうちに伸びたり、縮んだりする。
たとえば、上の例で挙げた「洋服」の「」を考えてみよう。
僕の名前の一字でもあるこの字の意味は、言うまでもなく「広い海、広いところ」だ。
東洋、西洋といった風に、漢字の熟語になる。

ところが洋室、洋梨、洋画といった語が示すように、
ここでの「」はもっぱら「西洋」であって、
」でありながら「東洋」はまったく示さない。
つまり、ここでの「」は意味が縮んでしまったことになる。
似た例では、「花見」の「」もそうだ。
「花見」に出かけてチューリップやバラを愛でることはない。
これはもちろん、桜を見ることに限られる(うんと昔は梅見も入ったようだけど)。
これらは意味が縮んだ例だけど、では伸びる例はどんなものがあるだろうか。
身近なところでは「お茶」「ご飯」がそうだ。

お茶」はもともと日本茶だけど、
-ちょっと休んでお茶にしましょう。
と言うとき、お茶以外に紅茶やコーヒーを飲んでも文句は言われない。

ご飯」も字が示すとおり、もともとは炊いた白米の意味だけど、
-昨日の晩ご飯はパスタだった。
と、食事一般を示すようになっている。

この伸び縮みは観察すればいくらでも見つかるけど、不思議でもある。
ことばの機能で最も大切なもののひとつは
あるものをある音で示すこと
だろう。

四本足でニャーと鳴いている近所の生き物は、
理由はどうあれ「ネコ」と呼び習わすのが日本語であって、
それが共有されてこそ、コミュニケーションは成り立つ。
言い換えれば、指示されるものと指示する音は
正確に一致を見たほうが都合がいいはずだ。


洋服ブティックの例に戻ると、身の丈に合ったサイズを着ることになるだろう。
それをわざわざ伸ばしたり、縮めたりするのは、
ダブダブかピチピチの服を選び取るようなものだ。
どうしてそんな面倒なことをするのだろう?
理由のひとつは、以下のようなことだ。
たとえば「お茶」「ご飯」の例は、日本が他の国と文物をやりとりして、
・コーヒー、紅茶など、お茶に似た嗜好品の飲料
・パスタやパンなど、白米に似た食品
を採り入れた結果だ。

コーヒー、紅茶という個々の名称はあっても、
前からある日本茶はこれらが入るずっと前から、
寄り合いで農民たちに、休憩時に職人たちに、
あるいは執務の引継ぎで同役の侍たちに振舞われてきた。
「お茶」は長期にわたる愛用の結果、
「お茶にする」という言葉の組み合わせで使われるようになった。
いわば言語上の既得権だ。

それは日本語に入ってきたばかりのコーヒーや紅茶には、持つことができなかった。
これらは一休みの飲料として好かれ、飲まれることはあっても、
その飲む行為がことばにされる時は
お茶にする。
と、日本茶の傘下に入るしかなかった。
「ご飯」はもっと強力だ。

本来は炊いた米しか意味しなかったのに、
「ご飯」は他国の食品が入り込んでくる前、
すでに和食の中で味噌汁やおかずを含んだ概念として言語的に勝ち抜いてきた。
「普通のご飯」と聞いて日本人が思い浮かべる和食のありようが、それだ。
だからパスタやパンがいくら入ってきても、
食事として口にされるとき、それは「ご飯」と呼ばれる。
カタカナ語の侵食がいくらあっても、
「パンにする」で米を食べることは意味しないし、
イタ飯ブームが極限まで行って、誰かが「パスタル」などと造語を作っても、
それが米の飯を食べることまで意味することはまずありえない。

カタカナ語の隆盛はあっても、こういう使い方では日本語は意外に保守的なわけだ。

伸び縮みの理由はまだまだあるので、次回に。?ひらめき

 

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