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荒川教授の「とりあえず日本語」ブログ
最終回 ことばの伸縮(その2)


ことばの伸び縮みの続き。


「ご飯」では、炊いた米が食事一般まで示すように、意味が伸びるし、「花見」では、花が桜だけを示すように、意味が縮む。

前回は重なる概念の中でどれが有力になるか、といういわば「文化的闘争」という理由を挙げてきたけど、もう二つ、この理由を考えてみよう。

 

この「言語的伸縮」が起きる二つ目の理由は、ぼかし効果と呼ぶべきものだ。


たとえば、今世間を騒がせている大相撲の八百長問題だけど、相撲協会の関係者は決して「八百長」という単語そのものは口にしない。
その代わりに

故意の無気力相撲


と言い換えている。意味は、ワザとやる気のない相撲を取ること、だろう。
するとそこには、
-今場所はもう勝ち越したし、疲れているから適当にやるか。
という、文字通りの無気力な相撲も入るだろうし、いわゆる八百長も入る。
結局、無気力相撲、つまり「勝とうとする闘争心のない取組」という言い換えにより、
八百長のイメージはぼかされてしまう。

ことばには、イメージを呼び起こす強い力がある。
たとえば、レモン満月、という音を聴いたり言ったりするだけで
何だか口の中が酸っぱくなるような気がするし
「笑」という漢字は、形そのものが、既に何となく可笑しい。わーい(嬉しい顔)
ある言語を用いている以上、ここに例外はない。
だから、嫌なもの・汚いもの・口にしたくないものの「ことば」だけで、
僕たちは実体を思い出してしまい、不愉快になったり、気分が悪くなったりする。
端的な例は、病気や死にまつわること、老いや性に関わることだ。
それを避ける知恵として、ことばの意味を広げる「ぼかし」が登場する。

たとえば排泄行為は「用を足す」と言う。
足すべき用事にはいろいろあるはずだが、この言語的な工夫によって、
明確な排泄のイメージはカメラカメラのピントを故意にはずすように、ぼやける。
あるいは白髪を「白いもの」と言ったりする。
雪も砂糖も白いものだから、老化現象のひとつである白髪は
これらのイメージと混ざって、曖昧になる。

そしてことばの伸縮の三つ目の、そして一番大きな理由は、僕たちが
現実に適当に折り合いをつけてことばを使っている
ことに尽きるだろう。
言い方を換えれば、人間は論理や科学的知識よりも、自分を中心に見たまま、
感じたままにことばを使い、それでけっこう用が足りる、ということだ。

たとえば冷蔵庫が動かなくなった場合は(昨年夏に荒川家を襲った悲劇)、
-冷蔵庫が壊れた。
としか言えない。
修理のお兄さんは「コンデンサーの故障です」と言ってたけど、
そこまで細かいことは日常のコミュニケーションでは求めない。
あるいは科学的には、地球は太陽の周囲を自転しているかもしれないが、
僕たちの目には、お日様晴れが東から昇り、西に沈むようにしか見えない。
だから、どの言語でも「日が昇る・日が沈む」としか言いようがない。
論理よりも見え方を重視、理屈よりも慣れを重視、
これがことばの運用の基本だ。

つまり、ことばにはズレやガタつきが避けられないけれど、
見方を変えれば、それは私たち人間という存在の反映でもある。
自分の見え方に引きずられてしまい、
慣れたほうになびいてしまい、
ズレもあるし、ガタつきもある。
それでもことばも人間も、どうにか何千年かやってきたし、
これからも不完全なままに何とかやっていくことだろう。

そんな風にことばの周辺を考えながら、半年にわたってエッセイで遊んできました。
これからも『とりあえず日本語で』本、どうぞご愛読ください。
講演やセミナーや学会で私を見かけたら、お声をかけてください。?わーい(嬉しい顔)

 

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